初めて読んだ文庫本は、星新一さんの『きまぐれロボット』でした。
小学校高学年になった頃のこと、父が読み終えた後、姉、わたしの順に読んだのだと思います。
食べられる家具や毎日なにかしら事件をおこすロボットなど、とても楽しかった記憶があります。
そして、文庫本=小さい文字がたくさんある大人用の本、というイメージを抱いていたにもかかわらず、最後まで読むことができて、ちょっとだけ大人になった気がしたものです。
多くの方が寄せ書きで書かれているように、星新一さんの作品は、読んだ子供たちに、自分が大人への入口に立ったことを意識させてくれるものなのだと思います。
さて、今回、この寄せ書きを書かせていただくことになったご縁は、いわき市立草野心平記念文学館で2015年秋に開催した企画展「星新一・星一展」です。
文学館は、(公財)いわき市教育文化事業団が指定管理者として受託している教育文化施設の一つで、わたしは現在、財団が受託する福島県いわき海浜自然の家に勤務しておりますが、1998年7月に開館した文学館に2017年3月まで学芸員として勤務し、「星新一・星一展」を担当させていただきました。
文学館は、詩人・草野心平(1903〜1988)が生まれたいわき市小川町にあり、彼が16歳で上京するまで暮らした生家がある町並みと、幼少期の彼が眺め暮らした阿武隈山系南端の山々が見渡せる高台に建っています。
地域をテーマにした企画展も開催しており、文学館での星新一さんとの最初のご縁は、2009年の「ふくしまの文学 浜通り編」でした。
福島県浜通り地方ゆかりの文学者、浜通り地方を舞台とした作品を紹介した企画展の中で、『明治・父・アメリカ』、『人民は弱し 官吏は強し』などを紹介しました。
新一さんの父・一さんは、現在のいわき市錦町生まれであり、上掲の2冊は、新一さんが父・一さんを描いた作品だったからです。
2015年開催の企画展「星新一・星一展」では、新一さんと一さんのそれぞれ果敢に新境地を切り開いていった生涯を紹介し、開催地ならではの内容として、二人といわきとのゆかりにも触れました。
一さんが生まれた1873年から新一さんが生涯を閉じる1997年までの124年間を辿る作業は、明治・大正・昭和・平成にまたがり、主要資料を絞り込むだけでも実に大変でしたが、ご関係の方々のご協力とお気遣いを有難く思い返しつつ、楽しい、充実した経験をさせていただいたと、いま、改めて思います。
星ライブラリさんから提供を受けた遺品リストは、『星新一 一〇〇一話をつくった人』の著者である最相葉月さんによる緻密な整理がなされたもので、膨大なその中には、新一さん、一さんのいわきでの足跡を示す資料の数々も含まれていました。
また、文学館やいわき市立図書館で所蔵する資料にも、二人といわきに関連するものがありました。
この寄せ書きでは、新一さん、一さんといわきのゆかりのいくつかを、紹介させていただきたいと思います。
一さんの郷里いわき、新一さんが訪れたいわきに興味を持っていただくきっかけとなれば倖いです。
一さんの『選挙大学』は1924年発行、『石城郡婦人に』と『選挙に就きて』は同年発行と推定される小冊子です。
1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に立候補した一さんが、理想の選挙運動として開催した1日で卒業できる講習会「選挙大学」のために発行したものですが、企画展で展示したこれらは、新一さんがいわき市平にあった古書店・白銀書房から1971年に入手したものでした。
新一さんの『人民は弱し 官吏は強し』にあるように、この選挙で落選した一さんは、「日本初の試みである『落選演説会』」を開きました。
市内で発行されていた「常磐毎日新聞」には、1924年5月20日付で「選挙戦経過報告会」の記事が掲載されています。
文学館で所蔵する市内ゆかりの詩人たちの資料の中には、一さんの郷里の若者たちへの想いが感じられるものがありました。
一さんは、1911年に進学のために上京した郷里出身者のために、現在の文京区に石城造士会寄宿舎を開所しました。
いわき市内では、大正から昭和戦前にかけて、30誌110冊を超える詩の同人誌が発行され、延べ1,000人超の執筆者を数えます。
その中の一人である中野勇雄(1905〜1971)が、東京商科大学専門部(現在の一橋大学)在学中の1925年に友人たちと作った回覧雑誌「すやき」第5輯の奥付と勇雄の住所は、略称であろう石城造士舎となっていました。
一さんが1917年に磐城中学校(現在の磐城高等学校)に設けた成績優秀者の学費1年分を援助する星奨学金は、「星賞」と呼ばれていたようです。
企画展では、磐城中学校生だった中野大次郎(1908〜1934 筆名=永崎貢 前述の中野勇雄の弟)が、修学旅行を終えて上野駅から帰途に着く際に、星製薬から贈られた京谷大助著『星とフォード』を展示しました。
一さんが生まれた錦町は、1966年にいわき市が誕生する以前は勿来市に含まれており、いわき市内でも特にゆかりの深い勿来地区には、1915年に一さんが建立した星喜三太の碑、1976年に新一さんが親族と建立した星一大人誕生之碑が現存しています。
星喜三太(1884〜1909)は一さんの父で、新一さんは『明治・父・アメリカ』の結びで喜三太の碑について記しています。
新一さんは、1972年にいわき市勿来市民会館の敷地内に一さんの胸像が建立されると、胸像前での献花祭などのために、毎年のようにいわき市を訪れるようになり、手帳にもいわき行きの記述がみられます。
1980年に勿来で開かれた「星一先生三十年祭追悼会」の席上、新一さんは、いわき市立勿来図書館へ図書購入費用100万円と蔵書600冊を寄贈しました。
蔵書の寄贈はその後も続けられ、同館には、新一さんが寄贈したサインと落款入りの自著『星新一の作品集』が所蔵されています。
余談となりますが、亡父の書棚に、新一さんのサインと落款入りの『明治・父・アメリカ』があります。
1980年1月第4刷のこの文庫本の入手経緯は判然としませんが、1980年の新一さんの勿来図書館への寄贈は、市内で話題となっていたと推測され、そんな関係から父が求めたのかもしれません。
1937年生まれの父が子どもの頃、星胃腸薬が家にあってお祖母さんが服んでいたよ、と話してくれたことがありました。
1981年12月17日の草野心平さんの日記には、野間賞の授賞式後のパーティーで「星新一に初めて会ふ。
ふるさとのことなど。
」と記されています。
ふるさとの話題がどこまで及んだのかはわかりませんが、新一さんと心平さんには、一さんを媒介にして、いくつかのご縁があります。
一さんが上京前に平の小学校の先生になる時にお世話になった磐城・磐前(いわさき)・菊多三郡長の白井遠平(1846〜1927)は、心平さんの実祖父です。
白井は、一さんが衆議院議員選挙に立候補した際、推薦人に名を連ねたこともありました。
また、一さんは1951年1月に、ロサンゼルスで77年の生涯を閉じますが、一さんが重態となったことを知らせる電報を星製薬に送り、遺言状の署名にも立ち会った国府田敬三郎(1882〜1964)は、心平さんと同じく現在のいわき市小川町出身でした。
新一さんが、『明治・父・アメリカ』、『人民は弱し 官吏は強し』に続く父・一さんの晩年について、いずれ執筆したいと思っていたことは、エッセイの中に散見し、『きまぐれエトセトラ』収録の「父と翼賛選挙」には、そのために翼賛選挙のことを知りたいと思っていると書かれています。
翼賛選挙は、1942年5月の第21回衆議院議員総選挙のことで、一さんは、翼賛政治体制協議会からの推薦なしで立候補し、当選しています。
1942年の一さんの「衆議院手帖」には、選挙運動のために訪れた郷里の地名が記されていました。
また、4月25日には、「妻と子供三人来平」とあり、一さんの妻・精さんと子供たち・新一さん、協一さん、鳩子さんが、現在のいわき市平を訪れたことがわかります。
この時、新一さんは満15歳7か月。
父の晩年を書くために知りたいと願った翼賛選挙が行われた当時、自身が父の選挙区を訪れていたことは、新一さんの記憶にあったのだろうか、だとしたら、新一さんは、このことをどんな風に書かれただろうかなど、興味は尽きません。
多くの方がそう思われていると思うのですが、一さんの晩年を描いた新一さんの作品をわたしも読んでみたかったと思うのです。
いわき市立図書館のホームページでは、「郷土資料のページ」として、明治から昭和にかけて市内で発行された新聞などが公開されています。
新一さんが『明治・父・アメリカ』を執筆する際に参照したという荒川禎三の連載「いわき百年と星一」全109回(1967年9月1日〜1968年1月26日)が掲載された「いわき民報」も、閲覧することができます。
一さんは国会議員としての多くを郷里の選挙区から立候補しており、新聞から当時の動向などを追うことができますし、郷里の錦町で一さんの町葬が執り行われ、新一さんたちが列席したことや、新一さんのいわきでの取材や講演など、企画展で紹介した新一さん、一さんのいわきでの足跡は、市内発行紙の掲載記事に拠るものも多くありました。
いまでも、調べ物をしていて、新一さんと一さんに関連する事項に遭遇すると、つい、読みふけってしまうことがあります。
新聞の場合は、前後の日付に関連記事が掲載されていないか、探してしまい、目的の調べ物から脱線してしまうことも多く、その度に、わたしの興味が尽きないままであることに気付かされています。
2019年11月
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